「小遣いから4万円を出し合い、毎週定期的例会を開いた」

10月23日収穫祭のときの風景
八ヶ岳を望む段々畑が青空農園のフィールド
10月23日収穫祭のときの風景

八ヶ岳あおぞら農園運営委員会
代表 浅川正樹

たまごっちのリアル版「あなたもこれでネットファーマー」
 八ヶ岳あおぞら農園は、八ヶ岳高原に住む農業素人5人によって運営されているレンタル農園。しゃれた言葉で言うとクラインガルテンだ。1999年は約40組の家族に,畑を貸し出すまでになっている。(2000年は約60組・2001年は約80組)

インターネットを使って、ゲーム感覚で気軽に参加できる農園を作りたい!というコンセプトで1997年9月、八ヶ岳南麓在住のパソコンユーザー数名で始めたんです。でも、実は農業はみんな素人でした」
浅川さん(左)と藤崎さん 
 こう語ってくれるのは、大泉村に住む浅川正樹さんだ。浅川さんは、地元のスキー場に勤める会社員(写真左)。夜中に、仲間とインターネットのホームページで八ヶ岳の地域情報を発信していたが、もっと八ヶ岳(田舎)独特のページを作りたいということから、あおぞら農園の企画は生まれた。

「減反による休耕田を利用することが、地域の事情として片方にはありました。ただ、普通のクラインガルテンではありふれているんで、我々パソコンユーザーで何かできないかって考えていました。そんなときに出くわしたのが、あのタマゴッチ。『どうせ画面の中で作るんだったら、本物のがいいじゃん』という訳です」

 そんな経過で浅川さんたちは、毎週1回、参加者の区画の画像をホームページで公開することを売り物にした農園を開設する。最初の年の参加者は8組。数こそ少なかったが、参加者の笑顔に、これはいけると、密かに浅川さんはほくそ笑んだ。

「やっぱり、マスコミの力って大きいですね。98年の9月に朝日新聞に紹介されてから、急に問い合わせが多くなりました」
 向かえた99年4月の農園説明会の開催日は、雨。しだいに強くなる雨の中、浅川さんたちは、「インターネット上のことだし、この雨だし、7割くらいの参加者じゃないか」と思っていたところ、予想外に約40組の申込者ほとんどの人たちが集まった。

「車が止まって次々と人がおりてくる。あのときは、感激しましたね……。準備に苦労しましたが、やって良かったと思った瞬間でした」

雨の中集まった参加希望者
 こんな形で、99年の青空農園のスタートはきられた。そして、間口4m、奥行き8mの畑を借りた農園オーナーは、半年にわたり八ヶ岳に通い詰めることになる。浅川さんが言うに、多い人で月2〜3回。平均しても月1回以上畑に通い、苗、肥料、食事、時には宿泊と地域の一員になっていったのだった。


農園全景(遠くに甲斐駒ヶ岳と南アルプス)

子供と一緒に種まき(岩瀬農園)

あおぞら農園誕生秘話
 あおぞら農園がここまで来た背景には、インターネットを何とか活用しようという涙ぐましい努力がそこにはあった。(以下HPより転載)


 長坂で酒販売店を経営しているKさんは、インターネット通販に強い感心を持っていたこともあり、96年冬、地元でミニコミ新聞を担当しているF君に相談。「インターネットを使えば、いろんなもので商売ができるし、八ヶ岳に観光客を呼び込むこともできるんじゃないか」と、Kさんはまくし立てた。

 ところがFさんは、活字一辺倒だったこともあり、当時、インターネットという分野にあまり関心がなく、「ホームページをつくる技術者がいないし、まだまだの分野じゃないか」とすげなく返事。

 こんなことで、一時はKさんのインターネット熱は冷めたにみえたがさにあらず。IBMの愛機を駆使して、あっちこっちのホームページを彷徨う。パソコンの前から離れないKさんの姿に、家族からも冷たい目線が浴びせられるようになった。

 そんなとき、Fさんはある友人を介して、コンピュータ大好き(もちろんマック)人間のMさんに巡り合う。

 「インターネットを使って八ヶ岳南麓からの情報発信をしてみようという話があるんだけど、どう思う」とFさん。

 「面白そうですね。実は僕も八ヶ岳南麓のフロント構想というのを持っていて・・・」と懐から紙切れのようなものを取り出すMさん。八ヶ岳情報化研究会と印刷されたその紙には、八ヶ岳を中心にした情報ネットワーク構想が描かれていた。

 翌日、Kさん宅を訪れ「清里方面にコンピュータの達人Mさんがいた。昨日会ってきたんだけど、Kさんが言っていたような構想を持っているし、彼が参加してくれるならインターネットを使って面白い事ができるんじゃないだろうか」と、一方的に話し、さっさと約束を取り付けてしまった。

 三者会談は、それからしばらくして実現。それぞれ責任を持つために、少ないこずかいから4万円を出し合い、毎週定期的例会を開いて責任分担することになった。もちろん、将来的には独立した運営が図れるようにしたいということで、運営費をどうやって捻出するか、ということも考えた。

 八ヶ岳南麓には、陶芸家や木工家など様々な人が住んでいる。と目をつけたKさん。「クラフト作家に声をかけ、その作品が売れたらマージンをもらおうという」という話しで同意。素材集めや作家さん達に参加説明をするために行動開始となった。

 これが八ヶ岳カントリーモールのスタートとなった。97年2月のことだった。

 ホームページは、どうにかこうにか3月中にカッコがつくまでになったが、インターネット通販の素人集団ということもあって、鳴かず飛ばずの毎日。それでもまだ参加している作家の数が少ないんじゃないかと、5月ごろまで参加の呼びかけが続いた。

 「インターネット通販はむずかしいな。やっぱり売れないんじゃないか」と、毎週の例会も次第にみんなの顔が暗くなってきた。

 Fさんは、クラフト作家の参加募集も含め早くも限界を感じ、「情報の収集をもっと広げるためにも協力者を増やそう」と提案。さらに、「物売りの路線だけじゃなくて、情報発信の場としての方法もあるんじゃないか」と話す。

 みんなそれぞれ思惑は違っていても、求める路線が“同じ”ということも影響し、「やってみよう」ということになったのでした。

 みんなの反応を聞いて、内心「やった」と思っていたFさん、目星を付けていたAさんに早速話しを持っていった。97年の秋のこと。

 「インターネットを使って畑の情報を発信したら面白いんじゃないか」というAさん。「八ヶ岳あおぞら農園」は、こんなかたちでスタートが切られたのであった。

99年10月23日大収穫祭
 あれから2年、浅川さんたちは99年の収穫祭を「思ってもみなかった」かたちで迎えることになる。主催者の一人、長坂の小林さんは感激してこう言う。

「収穫祭の参加者が、100人を超えました。こんなことになるとは、2年前には予想もしなかったことです」

 10月23日(土)午前10時。農園のオーナーが続々と集まる。天気は、快晴。雲一つない八ヶ岳がみんなを迎える。

餅つき交流の様子
約40組のオーナーたちがそれぞれの畑の作業を初めてまもなく、交流広場で餅つきが始まる。「よいしょ。よいしょ」と子供たちの餅つきを、みんな笑顔で眺めている。そして、つき上がった餅は、奥さん方の手であんこ餅、きなこ餅などになり、参加者に配られる。つきたての餅は格別だ。
 
 一通りおなかがいっぱいになると、餅で力を付けた参加者は、思い思いに自分の畑に散らばっていった。
 最後の収穫をする人。収穫後の畑の手入れをする人。既に来年に向け、土を耕す人。
収穫の様子町田市から来た望月さん
 そんな中で、町田市から来た西条さん(上の写真のVサインの方)にお話を伺った。

…どんな経緯でこの農園を知って参加するようになったんですか?

「主人がパソコンが好きで、インターネットで知ったんです。今日は、海外出張のため参加できずに、とっても残念がっていました」

…今年は何を作ったのですか?

ページを見てもらえれば分かりますが、プチニトマトにスイカ。ブロッコリーや大根なんか作りました。プチトマトなんか、夏中買わなくてすみました。それにとっても美味しくてね、皆さんに自慢したいくらいうれしいんです」

…草取りとかは大変ではなかったですか?

「農薬は使わないようにしました。そのため、結構、草取りはしましたね。取っても取ってもすぐに大きくなっちゃう。でも、都会に住んでいると、土をいじる機会はなかったんで楽しかったわ。来年はもっといろんな野菜づくりにに挑戦したいと思っています」

…お助けシステムはいかがでしたか?

「お助け母さんにはお世話になりました。農業の専門家がいると、いろいろ聞きながら、安心して野菜を作れますものね」

…半年間通われて、八ヶ岳をどのようにお感じになりましたか。

「ここの風景はとっても気に入っています。休耕田を利用したこんな取り組みにもとっても感心しています。ただ、やっぱり休耕田が多いですね……。そうそう、あなた県の人? 一つ提案があるんだけど、休耕田をお花畑にしたらどう。そして、10本つみ取ると500円とかね。そうしたら、この景色でしょ、東京から沢山の人が来るわよ。最近、蘭もだいぶ安くなってるでしょ。こっちで作って、東京に出荷するなんてことより、来てもらって自分でつみ取ってもらった方が絶対いいわよ。それに景観も良くなるし」

 西条さんは、数年間からこんな考えを持っていたが、こちらに通うようになり、より一層確信したと言う。「誰かに聞いてもらいたかったの」という西条さんは、すでにこの地域のことを思う住民の一人になってしまっていた。

右の写真で一番右の方が「お助け母さん」。実は浅川さんのお母さんだ。

100人を越すOFF会
 作業が終わると、いよいよ参加者100人による交流会の開催だ。昼食をとりながら、それぞれが半年間の畑作業をみんなに発表する。皆さん、すでに立派な農園主で、発表に先立っては「○○農園の●●です」という自己紹介も堂に入っている。
交流会の様子
「今日は、どうしても大根を収穫して帰らなければなりません。会社の同僚に、常々、『ボクは八ヶ岳に畑がある』と言ってますもので……」

「野菜嫌いの夫が、この農園の野菜だったらほとんどのものを食べるようになりました。お助け母さん、父さんありがとう」

「半年間、1月に2回は草取りに来ました。その甲斐合って、採れたミニトマトは真っ赤で美味しかった」

「マンションでプランター野菜を作っていて、ある程度野菜作りには自信があったのですが、やはり大地で作る野菜との大きな違いに気づきました」

「ビールが好きなので枝豆を作ることにしたんです。インターネットの画像では、葉が青々茂っていていい感じだったんですが、来てみたら豆の中身がありませんでした。難しいものだと思いました」

トラクターを運転する参加者 こんな感想もあったかと思えば次のような発言もあった。

「専業農家の方には申し訳ないんですが、こんなに簡単に野菜が出来るとは思っても見ませんでした。自然の偉大さを知りました」

「私の実家は専業農家でして、小学校の時代から農作業を手伝わされました。学校も田植えの季節や稲刈りの時は1週間休みでした。ですから、農業はいやだなと思っていました。でも、この企画に参加してみると、農業を別の意味から楽しめることを知りました」

「スーパーでお金を出して買う野菜と、自分たちが携わって生まれた野菜とでは、その重さが違うと思いました」

 また、子連れでの参加者からは教育面での農業や自然の大切さを訴えていた。

「1才と3才の子供がいます。自然の中で遊ぶことなど全くありませんでしたが、ここに来ておむつがすり切れるほど、子供を自由に遊ばせることが出来ました」

「子供の教育をかねて参加しました。どのように野菜が育っていくのか教えたくて……。でも、親の方が『はまって』しまいました」

「かわいそうね」と大根をもらう筆者「ここへ来れば、コミュニティがありました。参加されている皆さんと、一つの方向で共感できるというか……。都会では、なかなかこういう家族的な感じがありません。でも、収穫した大根をネタに近所でもコミュニティを作っていきたいと思います」

 さらに、インターネットに関してはこんな発言があった。

「新聞で知った当時は、パソコンが出来ませんでした。インターネットやEメールは家内の専用でした。それが、このページを見るために今は何とか動かせるようになりました。これからは、浅川さんにメールを送れるようにしたい」

「今日来るにあたって、隣の畑の方からメールが入っていました。『残念だけど行けないので、大根を抜いて宅急便で送って』と。さっき送っときました」

 こんな発言が参加者から相次ぎ、みんな来年の構想を練りながら帰路についたのだった。そんな、あわただしい状況の中、主催者の一人藤崎さんは私に次のように語ってくれた。

八ヶ岳と子供たち「埼玉などから来ている人は、実家が農家だと言っていました。この『あおぞら農園』に参加していることが実家に分かると『家を手伝わないで何してるんだと怒られてしまう』といいながら、参加しています。八ヶ岳の景観とロケーションに誘われてだそうです。わたしたち地元の人間には分からない魅力がここにはあることを、逆に教えていただきました」

 農業が産業になったのはいつの時代からなのか。食物の生産とは人間にとってどのような意味があるのか。そして、その地で産業が生まれたのはなぜなのか?
 この問いは、すべての産業で今、問われている。『あおぞら農園』への参加者の声は、そんな人間の根本的なところをわたしたちに問いかけているのかもしれない。受け入れる気持ちが、また新たな産業展開の方向を見つけ始めた。

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