舩木上次  (株)萌木の村代表取締役社長

ポール・ラッシュを越えて

 八ヶ岳の南麓・清里に静かな「トナカイ(鹿)ブーム」が巻き起こっている。街角や主なホテル、レストランの入り口で、みなさんを迎える「丸太のトナカイ」。清里のナラ、ミズキ、白樺などの間伐材を利用したトナカイだ。このオブジェが清里中に出現したのは、20
トナカイ
木のトナカイに喜ぶ子供たち
木のトナカイに喜ぶ子供たち

01年冬のこと。萌木の村や清里「朝日ヶ丘地区」「相の原地区」などで自然発生的に生まれてきたこの取り組みを、舩木さんが清里中に広めようとしてのことだった。
 同じ八ヶ岳の小淵沢では、この動きに連動して「きむら木工房」が「八ヶ岳・鹿ネットワーク」を立ち上げた(現在会員数約500人)。「みなさんにめぐり合わなかったら、私共の都合で切られたこの木々は、ほとんどただの廃材、薪にしかならなかったでしょう。今でも、伐採した木の切り株からふきだす樹液を見るたびに、正直言って、なんとなく気がひけます。だから、少しでも木の恩人であるみなさんのお役にたてば…」と木村さんは語る。木村さんの夢は、ペンションなど地元の様々な人たちの協力で「八ヶ岳を木の鹿など手作りの動物園にしていく」ことだ。
 清里では、これまで様々な取り組みがなされてきたが、「朝日ヶ丘地区」をはじめ多くの人たちが、自分たちのこととして、住んでいる環境を考え、景観づくりに参加し、お客さまをお迎えしようとした出来事はこれが初めてかもしれない。振り返ると1971年、舩木さんが清里で初めての喫茶店「ロック」を開いてから30年が過ぎていた。

失敗を恐れないチャレンジ精神
 舩木(船木)さんは不思議な人だ。会社(萌木の村)の話をしていると、いつの間にか清里の地域をどうしていくかの話にすり替わってしまう。

「僕はあんまり能力がないから、すべてまわりの人に助けてもらってここまできました。その人たちを動かしたのは、私や私の会社ではなくこの清里という地域なんです。だから、どうしても清里の話になってしまうんです。ときどき従業員に怒られますけどね(笑)」

 昭和24年、舩木さんは清里農村センターに勤める常治氏の長男として清里に生まれる。当時は、清里開拓の父といわれるポール・ラッシュが、終戦後再びアメリカから清里へ戻り、清泉寮を拠点にモデル農村づくりを再開した頃。KEEP(キープ)協会は、これらの活動の中で誕生していった。
※KEEP:清里教育実験計画

麦わら帽子の子供は舩木さん
麦わら帽子の子供は舩木さん
「小さい頃の遊び相手は、KEEP協会の大人たちだったんですよ。それも、全国からポールさんのモデル農村づくりの夢に共感して集まってきた…志の高い人たちでした。農場で手伝い(じゃま)をしながら毎日を過ごしていました」

 舩木さんは、小学校に入学して初めて「甲州弁(山梨方言)」に出会ったくらい、ほとんど同年代の子供たちとは遊ぶことはなかった。周囲は、ポール・ラッシュをはじめとした大人たち。アメリカからぞくぞくと集まってくる救援物資。そんななか意気揚々と過ごしていた舩木少年だったが…。あるとき、小学校の社会科の勉強で心を悩ませる調査があった。

「家計と収入の調査だったんです。あれだけ働いている親父だから、きっと給料は一番高いと思っていました。でも、結果は月給をもらっている人の中で一番低い人のさらに半分…。本当にショックでした」

 中学は長野の学校に進み、進学校にチャレンジするが失敗。やっと東京の大学に入るも、大学紛争に夢やぶれ、中退して清里に帰ってくる。

「いやぁ、あのころは挫折の連続でしたね。でもね、失敗したからといってこれで終わりという感覚は全くなかったですね」

 「あいつは生意気だ」と言われても、前へ前へと進む舩木さん。そこにはポール・ラッシュと父親たちが夢を実現させようと努力してきた姿。村を作ろうという汗。そこで『もまれて』しまった舩木さん。そんな原体験が、舩木さんの「失敗を恐れないチャレンジ精神」を育んだに違いない。

「オルゴール」に込められた思い

新生ロック。入り口には清里開拓トラクター。
 清里で初めての喫茶店「ロック」の開店(1971年)。ホテル「ハット・ウォールデン」のオープン(1978年)。手作りクラフトショップ村の集合「萌木の村」の結成(1980年)。ポール・ラッシュと過ごした最後の10年に、舩木さんは次々とおもてなしの場所を作り上げていった。

「清里に多くの仲間が欲しい。とにかく、清里の魅力を知っていただきたかったんです」

 しかし、時代はモデル農村づくりの取り組みを尻目に、ポール・ラッシュの夢とは違う方向で日本を豊かにしていく。高度経済成長を通し豊かになった日本の富が、清里になだれ込んでくる。観光ブームは一気に加速し、清里は「ミニ原宿」と揶揄された。
 昭和29年から続けられてきたKEEP協会カンティフェア(収穫祭)の中止。清里農業学校の閉校…。こんな状況のなか、農業と観光だけに軸足をおいた農村づくりを超えた街づくりを、舩木さんは模索していた。
 そんなとき、ある雑誌の編集長に、「地域づくりのヒントになる」と紹介されたのはドイツのロマンチック街道。舩木さんはいても立ってもいられず、清里の仲間30人と共に出かけて行った。
清里第1号のオルゴールと舩木さん
清里第1号のオルゴールと舩木さん


オルゴール博物館ホール・オブ・ホールズ
オルゴール博物館ホール・オブ・ホールズ



「先人の歴史がいたるところに織り成されていたロマンチック街道。そんな歴史や文化がない私たちはどうすればいいんだと思い悩んでいたとき…、出会ったのが一台のオルゴール(自動演奏楽器)なんです」

 ミュンヘンの街なかで開かれていたアンティーク市。そこで聴いたオルゴールの音色。その音色を聞いた瞬間、「これだ!」と舩木さんは直感した。この音こそ、これからの清里の方向性を示すものではないかと。

「一つ一つ手作りの部品が組み合わされてできているオルゴール。そこから誕生する音は、ハデさはないけれど、どこか懐かしいハーモニーとなって心に迫ってきました。これからの清里も、地域に住む一人一人がそれぞれの音を奏で、そしてそれが美しいハーモニーになっていくこと。そんな地域づくりの核としてオルゴールを清里に…。そう思ったんです」

 舩木さんは、その場ですぐにこのオルゴールを購入。その後、オルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」を創設し、現在では計260台のオルゴールを所有する日本一のコレクターになっている


ホール・オブ・ホールズ

「自分を磨け」…一流への道
 オルゴールを収集することを通し、舩木さんは多くの人に巡り会う。ドイツ、スイス、アメリカ…。中でもアメリカのある収集家の言葉を、舩木さんは今でも忘れない。

ドイツの子供たちと清里の子供
ドイツの子供たちと清里の子供

モーツアルト・バレル・オルガン
モーツアルト・バレル・オルガン

「『ミスター舩木。オルゴールを手に入れたいのなら自分自身を磨くことだ』。こう言われたんです」

 そのときは、「何言ってんだ、お金さえ出せば買えるじゃないか」と舩木さんは思った。しかし、それから数年後、舩木さんはこの言葉の意味を実感する出来事に遭遇する。

 舩木さんは、10代の子供たちの海外留学を支援する「萌木の村海外研修」を10年間続けた。計100名以上の清里、ドイツの子供が、お互いにホームステイをして交流を深める。費用はすべて舩木さんの負担。10年間で5千万円の経費が投じられた。「海外生活を体験した子供たちが、将来一人でも清里に戻り、広い視野に立って地域づくりをしてもらえれば…」と舩木さん。これが、思わぬところから評価を受ける。
 ドイツ・ベルリンで製作された「モーツアルト・バレル・オルガン」。モーツアルトが自動演奏オルガンのために作曲した幻の2曲を再生したオルガンだ。製作期間は研究期間を含めて30年。誰が手に入れるか世界が注目していた。

「そんなとき、『日本の舩木に購入の第一優先権を与える』って連絡が入ったんです。本当にびっくりしました。このオルガンの作者が、私たちが日独交流の時に必ず訪れる博物館の館長に相談したところ、ドイツの子供たちにしてくれたことのお礼として、舩木に譲ってやって欲しいと言ってくれたんです!」

 世界中のコレクターが、なぜジャパンなのかと悔しがるなか…、手に入れたオルガンの音色を聞いたとき、舩木さんが思い出したのが「自分を磨け」という言葉だった。

一流と思った瞬間から一流ではない
 オルゴール博物館をオープンしてから4年目に、舩木さんはフィールド・バレエに取り組む。日本バレエ界のトップスター今村博明、川口ゆり子の両氏により設立されたバレエシャンブルウエスト。そして地元清里のバレエ団が、夏の2週間、野外の特設ステージでバレエ・コンサートを開催する。

フィールドバレエ1
フィールドバレエ2
フィールドバレエ
「最初の年は、3日間の公演で350人が来ただけでした。14回目になる平成15年は、2週間で約1万人のお客さまにご覧いただきました。この頃は、地元の農家の方が毎日のように来てくれます。とってもうれしいですね」

 バレエシャンブルウエストが八ヶ岳を舞台に創作したグランドバレエ「天上の詩」は、平成9年度、バレエとして初めて文化庁芸術祭賞を受賞。その作品の舞台には、山梨出身のダンサー・バレリーナが5人も立っていた。

 自信になりました。やればできるんだって。加えて、一流の意味が少し分かった気がしました。『自分を磨き続ける』ということなんですね。今村さん、川口さんをはじめとした本当に一流の人は、自分を一流だと言わないんですね。清里公演でもきっちりとリハーサルをする姿。日々努力する姿。これには、毎年感動しています」

 一流の演技だから感動するのか。それとも、さらにその上の一流を目指して、日々自分を磨く演技だから感動するのか。答えははっきりしている。

 そうであれば、ポール・ラッシュが残した「Do your best, and it must be first class. (最善を尽くせ、しかも一流であれ)」という言葉。この意味を私たちは、もっと身近に再定義する必要があるのかもしれない。どんなことにもベストを尽くせ、それ(Do your best:自分を磨くこと)こそが一流への道なんだと。

 清里に住むそれぞれの人が、一流を目指し、ベストを尽くすことで感動を生み出す。そして、それがオルゴールのように美しいハーモニーになるよう、心をつなぎあわせる役割が「木のトナカイ(鹿)」なのかもしれない。

 振り返ると、清里開拓史に残るトラクター「ジョン・ディアー(JOHN DEERE)」のエンブレムには、鹿(deer)が刻まれている。そして、「木のトナカイ(鹿)」は、清里に住む人々の心を耕し始めている。そんな鹿のなかに、オルゴールのモーターとして地域を回し続け、ポール・ラッシュを超えようとしていた舩木さんの30年を見つけた気がした。

「ジョン・ディアー(JOHN DEERE)」のエンブレム
「ジョン・ディアー(JOHN DEERE)」のエンブレム(写真右)

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