紙の可能性への挑戦…和紙づくりの呪縛から逃れて


西島和紙工房 笠井雅樹・英さん

 日本三大急流「富士川」の中流に位置する中富町西島は、武田信玄が育成した和紙産地として知られている。現在では、戦後いち早く取り組んだ画仙紙(書道用紙)の生産を引き継ぐ、日本有数な手漉き書道用紙の産地だ。
 その書道用紙の産地に、一昨年(平成10年)町営「なかとみ和紙の里」がオープンした。「和紙の里」は、手漉き体験施設、展示施設、美術館、食事処からなる和紙のテーマパーク。そこには、ビジターとの交流を通した新たな和紙産地発展の思いが込められている。

 そんな「和紙の里」に先行すること10年、30歳になろうとするひとりの青年が新たな紙の可能性を求めて西島を飛び出していた。

「作らされている感じがした」
 東京の大学を卒業して8年間、笠井さんは実家の紙屋で父親と一緒に書道用紙を漉いていた。その書道用紙というのは昔から流通形態は決まっている。産地問屋を経由して東京などの問屋や小売店へ、そして全国の書道家に紙が届けられる。

「産地問屋さんには、苦しいときにだいぶ助けていただきました。でも、中国からの輸入なんかで、だんだんと国産書道用紙の需要が見込まれなくなってくると、産地問屋さんもそういい事ばかり言ってられなくなったんですね。前の在庫があるので、今月の納品は待ってくれ…というような月が多くなってきました」

 そうなると、雇っている人に払う給料を何とかしなければならない。こんな苦境が昭和50年代後半のバブル華やかなりし頃に、和紙産地には訪れていた。「8年間は自分のための紙作りではなく、産地問屋さんの意向で画仙紙を作らされている感じがした」と、笠井さんはこのときのことを話してくれた。

ふるさと工芸館(身延町)

体験工房館

「でも、当時から西島には、意外に若い和紙の仲間がいました。和紙の組合にも青年部があって、みんなで何とかしなければいけないという危機感を共有してたんです。それで、他の和紙産地をみんなで見に行ったり、国体の賞状など書道用紙以外のものも漉いてみたりとか、何かやらなきゃって模索はしていたんです…」

 そんなときに飛び込んできたのが、新しくできる「ふるさと工芸館」(富士川地場産業振興センター)への出店話だ。峡南地域にある和紙・はんこ・硯などの工芸を一同に紹介する施設に、和紙組合で誰か入らないかという誘いだった。

「8年間漉いていて、技術的にはそこそこの自信を持っていたんですが、製品を作るのも売るのも、何もかも自分でやらなければいけないんですね。ちょっと悩みました。でも、家では親父も漉いているし、2〜3年新しいことをやってみようかなという感覚で決意しました」

最初は人が来過ぎた
 「ふるさと工芸館」は、和紙はもちろん木工・ガラス工芸・陶芸などが体験できる施設として平成元年5月にオープンした。


和紙づくりの過程がオープンな工房

今では自分の商品が並ぶショップも
オープン当初は他産地のものが…。
「山梨での体験施設の先駆けですから、当初はかなり多くの方々が見えました。はがきの手漉き体験など、親子連れや子供を中心に多くの方が来て、かなり忙しかったですね」

 新しい和紙づくりの環境と忙しさに追われて、笠井さんは日々の仕事で夢中だった。
 しかし、お客さまがそこそこ入り、施設の設置目的は達せられたかのように思えた期間はあっという間に過ぎ去り、5年目くらいに西島和紙工房は節目を迎える。振り返ると、店で売っている和紙製品も、その多くが仕入れたものだった。

「当時は、結婚、実家の廃業など私自身の転換期でもありました。何か新しいことができるのではないかという当初の思いを実現させるのは今しかない。そう思って、つれあいの英と2人3脚でオリジナル作品づくりに再度チャレンジし始めました」

 「今は、つれあいのいいなりで作っている」と笑う笠井さんだが、最初は和紙職人のプライドが許さないような紙が売れていくのに納得は出来なかった。

「西島にいた頃は、100枚何グラムの均一な紙を求められていたものですから、でこぼこしたような紙は商品ではなかったんです。でも、お客さんは、つれあいの漉いた『でこぼこ・ぐしゃぐしゃ』の紙の方がいいと言って買っていく現実を見せられました」


楮の表皮が混ざった和紙

お客さまから教えていただいた紙の可能性
 そんな笠井さんだったが、お客さまとの交流は早くからそのメリットを感じていた。

「とにかく、お客さんの声が直接聞ける、顔が見えることが一番ですね。反応があるんです。そう思いはじめたら、観光で来るお客さんや子供たちからも、新しい発想が見え始めて来たんです」

 呪縛……笠井さんは和紙職人の枠から抜け出ることが出来なかった自分をこう説明してくれた。

「きれいで均一、そろった紙。これが私たちに求められている紙だと、ずっと思ってきました。でも、そんな考え方から離れてみると和紙の可能性はぐんと広がりました」


照明器具とタペストリー

青森から注文のあった笹を漉き込んだ障子紙

「紙の可能性をお客さまから教えていただいたとでも言うんでしょうか。例えば、今は照明器具やタペストリーなどの立体ものもやり始めているのですが、これは生け花の先生から言われて花台を作ったことがきっかけでした」

 グループ展や個展などさまざまな提案もするようになった。そして、最近では注文を受けて作ることも多くなってきたと笠井さんは言う。

「壁の色に合わせたタペストリーの提案、障子紙の提案など、工務店さんと一緒に店づくりなんかもさせていただけるようになりました。手間がかかってもとてもやりがいがある仕事だと思っています。でも、納得いかないとやり直したりして、意外に経済的には厳しいですね」

 こんな風に笑って話してくれる笠井さん。そこには、お客さまと直接向き合い、新たな紙づくりを探る笠井さんがいた。西島和紙工房、ここにも『ビジターとの交流』による新たな産業展開の形が見え始めている。
 振り返ると、西島産地が現在の書道用紙に特化したのは、戦後のことだった。地域の技術や資源を活用し、全国に先駆けいち早く画仙紙の研究を重ねて市場を獲得した西島人。その血を引き継いだ笠井さんは、次の世代の和紙産地のあり方にチャレンジしていると言ってもいいかもしれない。 


コスモスの花と茎を漉き込む作業(楮&麻)

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