春鶯囀の新たな取り組み〜酒造り・蔵作り…そしてファンづくり
(株)萬屋醸造店代表取締役 中込元一郎
酒蔵ギャラリー『六斎』店長 中込紀子
甲府盆地の南端に位置する増穂町は、富士川に流れ込む戸川などの豊かな扇状地に位置する。時代をさかのぼると、すでに奈良時代には最勝寺、明王寺、鷹尾寺などが開かれ、峡南地域の経済、文化の中心地となっていた。さらに、江戸時代には静岡と山梨をむすぶ富士川水運がひらけ、水運起点の町としてさまざまな交流が活発におこなわれてきた地域だ。
市場が小さくなる日本酒業界のなか、中込さんは生き残りをかけ、2001年6月、蔵を改造した酒蔵ギャラリー『六斎(ろくさい)』を開いた。お客さまとの交流が目的だ。 「オープン以来、さまざまなお客さまと直接お話しさせていただいていますが…、痛感するのは、いかに私どもが業界の枠でしかお酒を考えていなかったかということです。たとえば、山田錦(注)を使った吟醸酒が絶対いいかっていうとそうでもないんです。吟醸香が好きな人ばかりではないことに気づかされました」 これをきっかけに、東京などで行われる日本酒の展示会では「純米酒のぬる燗」を提案しているという。『地元の米の個性を出す』。これは、ここ数年の中込さんの酒造りに対する考え方だ。『六斎』はこんな考え方から誕生し、早くも中込さんを後押しし始めている。 (注)最高級の日本酒を造る酒造好適米の種類。 |
『日本酒?』が飲めなかった中込さん | ||||
「大学の時はもちろん、試験場に入っても日本酒は飲めなかったですね。あんなにベタベタしたお酒がなんで美味しいのか、私にはまったく分かりませんでした」 そんな話を試験場の担当教官にしたところ、その先生は3本の日本酒を紹介してくれた。宮城県、新潟県、愛媛県の酒。今でも名だたる蔵の日本酒だ。中込さんはさっそく取りよせて飲んでみた。 「正直、驚きました。今からはこういう酒を造らないとダメじゃないかって。これまでの日本酒に対する考え方を一変させた出来事でした」 実はこれに前後するように、1976年(昭和51)、萬屋醸造店は県内でいち早く3増酒造り(3倍醸造法)をやめた。3増酒とは、第2次大戦後の米がない時代、普通に造った酒を水とエチルアルコールで3倍に薄めた日本酒のこと。当然、ほんらいの酒の味はしないので、水あめや化学調味料などを加える。そのため、ベタベタした感じがのこる。 「3増酒は、お酒がない時代にはそれなりの意義はありましたが、これからはちがうと思いました。でも、同じ量の日本酒を造るには2倍以上の米がいるんです。当然コストが上がります。まわりからは、『そんなことすると、春鶯囀、つぶれるぞ』って言われましたね」 しかし、日本酒ばなれと地酒ブームという社会現象を背景に、時代は中込さんの考え方にそって流れていく。そして1980年(昭和55)、勉強を終え蔵に戻った中込さんを待っていたのは、もっと身近な酒蔵の美味しい酒だった。 「大泉村の谷桜酒造さんに行ったときに、純米酒をいただきました。県内の蔵でもこんなにすっきりした純米酒を造れるのかって、お尻に火がついた感じでした」 それから、1984年日本名門酒会に参加し、86年には、全国新酒鑑評会で全国金賞も受賞する。日本酒を取り巻く環境は確かにきびしい。きびしいからこそ、いい酒を造らなければならない。そんな取り組みが、しだいに評価されていった。 はたから見ると順調に見える中込さんの取り組み。しかし、中込さんはこれに満足せず、実はこの10年間はちょっとちがう視点からの日本酒造りを考えていた。 |
「地域のなかに見えた世界」〜米作りからの酒造り | ||||||
「勝沼のワイナリーの方々と話をしていると、世界に通用するワイン造りについて熱く語ってくれます。そしてちょうど1990年くらいを境に、地元でワイン専用品種の葡萄を育てていこうという動きが出てきました。これにはけっこう刺激を受けましたね」 しかし、そもそも葡萄と違い、穀物である米は流通が容易であり、米どころからの酒米の購入にはなんの問題もないはずだ。事実、中込さんも県内の酒蔵と共同で滋賀県産酒米の契約栽培をしている。
それでいいのか…、いい酒を造るだけでいいのか。蔵の存在意義があるのか。中込さんは問いつづけた。 「美味しくて評価は高いんだけど、ふだんの食卓に上らない酒。それはそれですばらしい。でも、それよりも日常の食卓のなかで愛される酒を造った方がいいのではないか。しだいにそんな風に考えるようになりました」 そう考えると避けて通れないのが、蔵の個性であり、個性を生み出す地域であった。既に、白州町の山梨銘醸では、農家の方々と協力しながら酒造好適米の美山錦を作って成功を収めつつあった。 「山梨でもやれば出来るんだ! そんな気持ちでした」 そう言う中込さんのパートナーが、米作りの専門家・秋山和雄さんだ。秋山さん曰く『社長がどうしてもやりたいって熱心に言うからその心意気に負けて作り始めたんです』。しかし、酒造好適米作りは、秋山さんも初めてだった。酒造用の米は、主食用にくらべると粒が大きくて重く、中心にでんぷんの白い固まりがあってご飯にするとパサパサした米だ。しかし、これが日本酒造りには欠かせない。 「ちょうどその時、白州町の美山錦作りを支援した篠原さんが地元の県振興事務所にいたので、いろいろと教えていただきました。増穂の気候には玉栄(たまざかえ)という酒米がいい。栽培の注意点は…。さまざまな方々にさまざまな形で応援していただき、ようやく地域に根づいた酒が造れる環境になってきました」
「地元の米の個性を出すには、あまり削りすぎてもダメなんです。一見、雑味だと思われるものがうまく絡み合うというか…。特に、それがぬる燗になると一変して長所に変わるんですね」 今年の契約栽培では、約3ヘクタールで15トンくらいの米が収穫できた。これは、中込さんの蔵全体からすると約1割に当たる。 「いずれは、地元の米で5割以上の酒を造りたいんです。増穂の酒蔵ですからね。幸い今年の米は、まるまるした芯白の多い良い米が出来ました。同じ玉栄でも滋賀のものより増穂の方がいい…。秋山さんに感謝です」 では、中込さんをここまで地域と共に生きる酒蔵に転換させようとしているものはなにか。一つは2003年の酒類販売免許の規制緩和を目前に、競争が激しくなりつづける日本酒マーケットであることはまちがいない。そのマーケットのなかでの生き残り策というわけだ。 しかし、何度か中込さんと話をしていくうちに、もう一つ忘れてはいけない理由があることに気づく。それは、蔵を変えていく心のよりどころとして、中込さんが地域を深く愛し始めたこと。これを見逃すことは出来ない。 中学校は甲府に通い、高校からは東京で過ごした。27歳で増穂に戻るまでは、ほとんど地域のことを知らずに育った。それに、子供のころは何かにつけ『酒屋の息子』と、皆とちがう目で見られていたような気がし、何となく違和感を感じていたとも言う。 「地元に戻ってきたときは、まだそんな思いが心のどこかにありました。でも、仲間たちが地域でがんばっている姿を見たり、さらには増穂が気に入って移り住んでくれた方々を通して、ほんとうの増穂の素晴らしさを実感しました。秋山さんという協力者もできました。ですから、私もこれまで以上にこの地域のために働きたいと思うようになったんですね」 普段なにげなく接している地域のなかに世界が見える。その瞬間、人のこころが動く。そしてそれからは、改めていろいろなものが違って見えてくる。地域を好きになるきっかけはここにあるのだろう。 |
2階ギャラリー |
与謝野晶子作品 |
仕込み水でいれた コーヒーが自慢のカフェ |
酒蔵ギャラリー『六斎』誕生! | |||||
2階はギャラリーで、春鶯囀の名付け親『与謝野晶子』の作品や『木喰(もくじき)仏』など萬屋醸造店所有の美術品の企画展示や、地域のアーティスト・クラフトマンの展示スペースとして提供する。 「1階は、お客さまとの交流スペースです。カフェや日本酒の試飲コーナーもあり、チョットした会話のなかにもお客さまの日本酒に対する考え方が出ていて、とっても参考になります。また、夜はコンサートをしたり、日本酒を飲む会を開催したりしています」 こう話してくれたのは、『六斎』店長の中込紀子さん、中込さんの奥さんだ。先日行われた「地酒・鷹座巣(たかざす)を愉しむ会」は、全くの手作りの会でとても心温まる時間が過ごせた。 「お米を作っていただいた秋山さんをはじめ、地元で応援してくれる方々にお集まりいただき、ある意味、これから私たちが取り組む酒造りの決意を伝えるような会になりました。『六斎』があってよかったなと改めて感じました」 蔵に来ていただいた方々をおもてなしする場所は、10年ほど前から欲しかったと紀子さんは言う。仕込みの期間を中心に、遠くから蔵に訪れてくれる方が少しずつ多くなってきたからだ。 「でも10年前に建てていたら、もしかすると『六斎』はお酒の販売を中心にした場所になっていたかもしれません。時代が、今のかたちを求めているのでしょうか。この3年間で100を越す蔵を見て回りましたが、お客さまとの交流を大切にするという流れを、あちこちで感じました」 また、今年の7月、『六斎』など町内3カ所を中心に『第1回増穂いきいき芸術祭』が開催された。かつて富士川を通して交流が盛んになり町が栄えたように、芸術を通して他地域の人々と交流できる場所を作っていこうと、有志が集まりすべて民間ベースで行われた祭りだ。http://www.hakubaku.co.jp/chiiki/masuho_top.htm 「『六斎』では、ジャズコンサートを開催しました。50人くらいの人が集まりけっこう熱気がありました。でも、まだまだ始まったばかりです。さまざまな課題も出てきました。やってみて始めて分かったこともあります。ともかく、ここに住む自分たちで何とかしようと走り出したところです」 春鶯囀の『六斎』から、地域の『六斎』へ。『月に6回だけでなく、気軽に7回も8回も来ていただきたい』これは店長紀子さんの『六斎』オープニングでの言葉だ。 新しいチャレンジ。見ているこちらが、思わず心配し参加したくなる。私にも何か協力できることはないかと…。きっと、時間をかけたそんな試行錯誤の取り組みが見えるからこそ、人はこころを寄せるのだろう。酒造り、蔵作り、そして春鶯囀ファンづくりへのチャレンジは、今、始まった。 |
参加者の話に笑顔の中込さん 今では日本酒が大好きだ。 |
最後までねばった参加者と 会を支えたスタッフ。 |
お問い合せ先:(株)萬屋醸造店 http://www.shunnoten.co.jp/