『山まゆの里』を訪ねて

四尾連湖畔での展示会にて
山まゆの里染織工房
中川原哲治・惠子

自習室にて

去年はこんなマフラーもできた!
「隣の人のを見てもダメだよ。どんな糸がいいかなんて、正解はないんだよ!」

 中川原さんの声が教室に響く。9月5日、恒例になった市川東小学校の『染め織り教室』でのひとコマだ。山の小学校、市川東小学校は全校生徒わずか13人。だから、実習授業は全学年まとまって行う。

 今日は繭から糸を作る実習。1年生は自分の膝を使って糸を紡ぐ。2年生3年生は遠心力を使った道具、高学年になると電動紡ぎ機で糸を紡ぐ。様々な方法で、繭から糸を作り上げる。子供はもちろん、先生方も夢中になる時間だ。

「紡いだ糸は地元の草木で染めて、最終的には織物にします。自分で作った世界でただ一つの布になるんです。ですから、正解はどこにもないんです」

 やさしい目で、子供たちの作業を見つめる中川原さんだが、実は中川原さん、この言葉どおり『正解のない人生』を自らの意志で歩み、そしてようやく『山まゆの里』にたどり着いたのだった。

遠心力を使って糸作りができるんだ繭からさなぎを取り出す作業一年生
糸作りに挑戦する市川東小学校の子供たち

『山まゆの里』染織工房誕生
 1997年春、中川原哲治さん惠子さん夫妻は、甲府盆地の南端、市川大門町の藤田(とうだ)地区の共同作業所を借り受け、『山まゆの里』染織工房を開設する。この藤田地区には17戸の家がある。典型的な過疎の村だ。かつては養蚕が盛んだったが、今やその養蚕農家はたったの3軒になってしまった。そんな村の共同作業所に、村の人は中川原さんを受け入れた。


藤田地区

夏繭の共同出荷

天蚕の繭
「海抜700mのこの地区からは、南に富士山、西に南アルプス、そして北は甲府盆地越しに八ヶ岳を展望できます。自然が豊かで草木染めの素材も豊富です。ただ、何と言ってもここは『山まゆの里』という名前のとおり天蚕(てんさん)が育てられるのが魅力なんです!」

 天蚕(てんさん)。これは、家蚕(かさん・養殖されているカイコ)ではなく野生でシルク糸を吐く昆虫『野蚕』(やさん)の一種類のこと。なかでも日本や中国に住む天蚕・ヤママユガは、美しい薄緑色の糸を吐く。しかもカイコの繭と同じ大型の繭になるということで、くぬぎ畑の圃場に防鳥用のネットを張ったりして人工的な管理が進められている。

 そして、その糸は緑のダイヤ・繊維のダイヤと言われ通常のシルクの数十倍、150グラム10万円という高値が付くという……。しかし、実はこの値段について中川原さんは疑問を持っている。

「貴重で高いというのは分かりますが、だからといってそれだけを生き残りの手だてにしていったら、着物などと同じ運命をたどってしまいます。日常生活から離れるとマーケットがものすごく小さくなってしまうのです」

 中川原さんは、売れなくなったときには売るための商品開発やマーケティングがあるはずと言う。それを伝統文化だからと言って希少性や高価格だけで解決しようとすると、それは人々の生活から離れてしまう。

「伝統文化といえば聞こえはいいですが、それは表面的な技だけではなく日々の暮らしの営みや、次の世代の文化を生み出すような日々のチャレンジが、その文化を伝統的なものにしていくんだと感じています。『山まゆの里』に来て心からそう思えるようになりました」

 次の世代のために生きる。そんな生活の場として、中川原さん夫妻は豊かな自然が残る山梨を選んだのだった。


防鳥用のネットを張ったくぬぎ畑

機織り屋への転換〜養蚕の暮らしへ

くぬぎ畑

ヤママユガ

ヤママユガの卵

天蚕の繭


八本の糸を紡いで一本に

天蚕の糸

たて糸の整経作業
 昭和40年代、美術大学を卒業した中川原さんは大手映画会社に勤め映像プロデューサーとして活躍していた。テレビ、劇場映画、東京ディズニーランド、つくば科学万博とさまざまな映像制作に関わっていた。一方、奥さんの惠子さんは染織作家としての活動をしていたが、八王子にある実家の機織り屋が廃業の危機にあり、中川原さんは人生の岐路に立っていた。

「当時取材に行った中国雲南省の少数民族の村で見た光景がきっかけでした……。決して豊かとはいえない家族が、共同でしている畑仕事。額に汗するその姿は本当に感動的でした。物の豊かさを求めるがゆえに多くの何かをなくしてしまった私の心は、大いに揺り動かされました」

 この瞬間、中川原さんは奥さんと一緒に機織り屋を受け継ぐことを決意したという。

 そして廃業を目の前に、映像プロデューサーとしてのネットワークをフルに活用してファッションビジネスの世界に飛び込むことになる。パリ、ミラノ、東京。春夏、秋冬。次から次へと忙しく場所と時間を飛び回り、実家の機織り屋は次第に息を吹き返してきた。

「でも、何かが違う。そう思い始めたのは、流行のシーズンが終わった布(反物)が大事にされないのを見てからです。苦労して作った布のその生命がとても短いんです……」

 ましてや子供に引き継がれる布など、この世界には全くない。悩んだ中川原さんは、手紡(つむ)ぎの糸で創作した布を自分の手で展示し販売するという方法で、自分のポジションを見直し始めた。

 自分で作った布、全国各地の展示会で直接お客さまに手渡す。次ぎにお客さまが展示会に訪れてくれると、「この前の布は元気ですか」と声をかける。とても充実した関係が築き上げられた。こうして、中川原さんは家内産業としての布作りという答えにたどり着いた。

 しかし、そこにも中川原さんが求めていた正解はなかった。

「染織を文化としてとらえ、次の世代に渡していこうと意気込んでいた私どもですが、いつのまにか、その原料を作る農家の人々を忘れてしまっていたのではないか? そんな問いがまた私どもに投げかけられました」

 手紡ぎ糸。これは、繭生産の中で副産物とされているものだ。出荷することができない繭を、農家の方が自分たちの手で紡いで生活の中で利用する。それが、養蚕農家の減少とともに手紡ぎの糸が手に入らなくなってきたのだった。

「海外からの輸入も考えました。でも、染織の文化は、ある意味、養蚕の営みの中で培われた文化なんですね。その原点から逃げるわけにはいかなかった……」

 そして、出された答えが『山まゆの里』染織工房であり、天蚕組合員の休畑を借りて1999年から始めた天蚕作りだ。

 5月、くぬぎ畑に若葉が芽吹き始めると、中川原さんは天蚕の卵を小枝に植え付ける。前年の夏に生まれた卵を冬の間大切に保管していたものだ。8月、緑色に輝く繭を大切に収穫する。惠子さんは自分たちで作った繭から紡いだ糸について、本当に愛おしげに話してくれた。

「天蚕の糸は風に当たっても風合いが落ちてしまいます。ですから繭を作った場所で紡ぎ織ると布が全然違うんです。柔らかいんですね。これは、カイコの糸と違って、山まゆ一本一本の繊維の断面に数多くの穴が空いているからなんです。その風合いを生かして糸を紡ぎ、布にしたいんです」

布作りの現場にお客さまに来ていただくことの意味
「養蚕と染織文化を次の世代に伝えるには、なんとか今を生き残っていく手法が必要なんです。かかわる人たちが技の蓄積の中で食べ続けられる手法。今はそれを追い求めています」


市川東小学校

子供たちの作品

共同作業所を改良した工房

夏の染織教室

地元の方とも交流

四尾連湖

四尾連湖畔での作品展

地元の素材で草木染め
 その生き残りの前提となるのが、地元の小学校での染織教室だ。今年で3年目になるこの教室は、中川原さんだけでなく染織工房で働く地元の池川さんや学校の先生方の協力で充実したものになってきている。さらに、今年赴任した校長先生は中川原さんの思いを受け入れてくれ、「来年からは学校でも繭作りから取り組みたい」とまで言ってくれた。

「この子たちに、この地には世界に通用する山まゆ、糸作りがあることを知ってもらいたい。過疎という環境に心を痛めてばかりではなく、こんな素晴らしいものがあって世界中から人々が訪れるんだってことをね。そのことを心の片隅に残してもらい、機会あれば何十年か後にこの地に戻ってきてくれればいいと…。その辺を目指しながら、今後も続けていきたいと思います。ここでの取り組みは個の取り組みであって、何かドンと作って流れを変えるというような取り組みではありません。決して急いではいけないと思います」

 世界中から人が集まる。実は、小学校での染織教室と平行して、中川原さんは工房をお客さまにオープンにしている。ここで年に何回か染織教室も開催している。これが中川原さんが考える地域の生き残り手法だ。この夏の染織教室は、4泊5日で行われた。

「遠くは長崎県からお客さまにお越しいただきました。教室というか夏合宿ですね(笑)。近くに四尾連湖(しびれこ)という小さくてきれいな湖があるんですけど、そこの山荘に泊まっていただき教室を開催しました。糸作りはもちろんですが、山歩きをしながら染める草花を採取したり、地元の農家の方と触れ合ったり、本当に熱心で、最終日なんか夜中の3時まで最後の織りの作業をしました。皆さん『高校以来の合宿だ』と笑っていました」

 大変盛況な染織教室だが、ここで注目すべきは『染め織りの技術を学ぶだけなら、わざわざ山梨にまで来ていただく必要はない』と中川原さんが考えていることだ。

「この地域で営まれてきた…、つまり世代を越えて続いてきた養蚕と染織文化の背景を見ていただき、感じていただきたいんです。こうしてここにある布が、どのような地域で、どのような人々に、どのように作られているか。これをぜひご理解いただき、布を見たときにその世界を感じていただきたいんです」

『原料を作る農家のことを忘れてはいけない』。この問いいに対する中川原さん自身の答えがここにある。

 これは養蚕だけに言えることではない。繭を作っているところでは、その地域一帯で農薬を使わない。農薬が桑の葉に着くとそれを食べるカイコが死んでしまうからだ。長年にわたり無農薬だから野菜がとてもおいしい。これが中川原さんの自慢でもあり、訪れる人たちがびっくりすることでもある。

「もったいない話ですが、まだ、この野菜のように地域に隠されているいろんな資産を上手に使えていないんです。でも、少しずつ少しずつ地域の人と一緒になりながら生かしていく仕組みを作っていきたいと思います。過疎といっても、好んで山を下りている人ばかりではないのですから」

 お客さまに来ていただき、この土地にある時間の流れの中に身を置いてもらう。これが大事だと中川原さんは考えている。だから、観光スポットとして一時的に立ち寄る大手旅行会社のツアーは断ってきている。

「染めなんかに興味を持ち訪れてくれるお客さま自身が、ここの時間に触れると意識が変わって帰られるんです。自分で発見した身近な草花で染め上げることが、ちょっとした作業でできる。そんな『気づき』がその人の考え方を変えるんです。よく考えると実は自分の家の回りに『青い鳥』がいたんだ……。自分の地域でもできるんだと。期待以上の感動はこんな所から生まれているんだと思います」

 そんな感動を覚えた人は、ここ『山まゆの里』を第2のふるさとのように思ってくれ、繰り返し訪れるリピーターになってくれると中川原さんは言う。いや、それ以上にこれからこの地域を支えてくれる応援団になるかもしれない。ビジターをファンに変えるシステムが確かにここには存在し、その中心には『正解のない人生』にチャレンジしている中川原さん夫妻の姿があった。

ご連絡先:山まゆの里染織工房 TEL055-272-8150 http://homepage2.nifty.com/yamamayunosato/
ご注意:中川原さんは、1年の1/3を山梨、1/3を八王子、1/3を全国各地で開かれる展示会で活動されいます。工房を訪れる際は、事前にご連絡くださいとのことです。

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