芸術性のある商品として認められた生地


山梨県織物整理 代表取締役社長 渡辺明弘

 山梨県の東部・富士北麓地域一帯は、かつて『甲斐絹(かいき)』の名を全国に轟かせた、数百年の歴史を持つ織物産地。現在でも服地のほか、ネクタイ地、傘地、座布団地など国内シェアの多くを占める品目を産出している。

 そんな富士吉田市にある山梨県織物整理株式会社は、昭和18年に創立された会社。全国的に伝統的な繊維産地の斜陽化が進んでいるなか、同社の渡辺明弘さんは、ここ数年来、整理加工を製品の価値創造の中核点とする新しいものづくりに挑戦している。神出鬼没に工場を飛び回る渡辺社長のそんな姿は、会社の経営者と言うよりむしろクラフトのマイスターを連想させる。

「製品の価値は『後加工』で決まる」
 『後加工』というあまり耳慣れない言葉は、織物の世界では最終的な工程、つまり生地の仕上げ加工のことを意味する。たとえば水洗い、糊付け、生地幅の調整などの仕上げ。あるいは、防水加工、防炎加工、帯電防止加工といった生地に特定の機能を付与する加工などの最終工程のことだ。


山梨県織物整理・工場

後処理工場
「ほとんど全ての織物製品は、あたかも役者さんが化粧をしてから舞台に上がるように、この『後加工』を経ることで初めて完全な商品に仕上がり、市場に出回っていくんです。私に言わせれば、『製品の価値は後加工で決まる』んですね」

 渡辺さんは、織物整理を単なる仕上げ工程という従来の位置付けから、製品の価値創出の表舞台へとシフトしていくべきだと考える。

「今考えているのは、そんな自社加工品をともかく輸出したいっていうことですね。リスクを背負って自分たちで商品を作って、いつかそれを輸出できるようになればとね」

 出来上がった生地を整え「化粧」をするという『後加工』から、イニシアチブを持った製品づくりの主役としての『後加工』へ。これは産地同業者たち共通の夢でもあり、また長い間に定着してしまった下請け体質によってオリジナルブランドをなかなか持ち得なかった富士吉田織物産地全体の願いでもある。

「これからの産地は付加価値の高い、クラフト的な製品に目を向けないと生き残れないんじゃないか。海外生産でコスト競争をするような大量生産型ビジネスを、この産地が真似しようとしたって、それは絶対不可能。それでは、産地の技術をどこで使うかと言えば、付加価値のある高級品しかない」

 およそ20年前、扱う品目が裏地や夜具地といったものから、マフラーへ移っていった頃、渡辺さんにはこんな意識が芽生えつつあった。マフラーという、それまで扱っていなかったファッション性の高い商品ジャンルに触れたことで、渡辺社長は、こんな風に産地の新しい方向を予感しはじめた……。

 しかし、現実はそうは問屋が卸さない。激しいコスト競争にさらされる時代を迎え、より安く、より早くという問屋や商社の要求の中で、産地はますます下請け的な色合いが強まっていく。

『ニードルパンチ加工技術』との出会い

ニードルパンチの織機

剣山のような針が布を張り合わせる

きっかけになったマフラー
チェック部が手作業のニードルパンチ

3色のハートを張り合せた生地

様々な生地を張合せた玄関マット
 そんな状況下、そして数年前、決定的な転機が渡辺さんに訪れる。

 それは『ニードルパンチ加工技術』との出会いだった。ニードルパンチとは、生地を剣山のような無数の針でパンチングし、生地と生地、または生地とフェルトや真綿などの素材を圧着させる技術だ。無数の針で繊維が絡み合わせることで、あたかも写真や印刷物のコラージュのように生地を合体させることができる。

「ニードルパンチに取り組もうとした一番最初のきっかけは、イギリスのマフラー。そこでは昔ながらの手仕事で手の込んだ高級品を、小ロット生産していたんです。それは、織物でも出来ない、編みでも出来ない、そんな製品づくりなんです……」

 これはいける、と渡辺社長はニードルパンチ加工機の開発に力を注いだ。同社が山梨県富士工業技術センターと協力体制をとり、ニードルパンチ加工機を開発したのは平成7年のことだった。そして現在では、ニードルパンチは会社の目玉と言えるまでに成長した。

 ニードルパンチは1枚の生地を作るのに複数枚の生地を使うようなものなので、素材のコストもその分必要となり、またクラフト的な技術であるため量産化は難しい。しかし逆に言えば、だからこそ付加価値の高い製品づくりが可能となった。渡辺社長は、ニードルパンチ加工機の開発によって、生地を織ること自体に匹敵する価値創造手段を手に入れたといえる。

 そしてこの技術は、同社が三宅一生をはじめとするデザイナー達の目に止まるきっかけにもなった。『ニードルパンチ加工』はまさに付加価値の高いクラフト的な製品づくりができる技術。この装置の開発に投資したことで、製品づくりのクリエイティブな分野を担う人々が渡辺社長のもとを訪れるようになった。そして新しい職種の人々との交流を通じて、以前は先方から送られた企画書どおりに仕事をこなしていた工場は、次第に新しい姿へと変化して行く。

 山梨の織物産地は『甲斐絹(かいき)』がそうであったように、もともと着物や洋服の裏地を主体とする産地であり、高度な技術は持っているものの、華やかなブランド性やファッション性、デザインというものとは歴史的に縁が遠かった。しかし時代はそれを許さなくなってきていた。

ニードルパンチにより一部だけを張り合わせた生地

工場をオープンに
「これまで我々はデザイン開発というようなものに眼を向けたことはなかったんですが、ニードルパンチを始めてからは、デザインは不可欠なんですね。」

「でも、我々にはデザイナーなんていないんです。それで、ここでひとつやり方を変えようと。整理工場っていうのは、ふつうは一切立ち入り禁止。でも、我々はあえて『どんどん入れちゃえ』と、そういう風にしました。デザイナーや企画の方には工場で自由に機械を使ってもらい、我々はそれをアシストする。その代わりに、我々は『なるほど、こういうやり方があるのか』っていうことが分かる。そういう情報交換で得るものは大きかったですね。」


地元のグラフィックデザイナーの作品
いきなり、織物展で賞を取った。
 ニードルパンチが外部への扉を開いたことを契機に、思い切って工場をオープンにしたことが、会社に新風をもたらした。そして同社は塩縮加工装置、注染ぼかし染め加工機と次々に新しい技術に先行投資し、さらに創造力を磨いてゆく。

「今はテキスタイル専門学校の生徒さん達にも工場を無料開放しています。工場の仕事が空いているときには、いつでもどんどん使ってもらいたいと思いますね。」

 それまで関係ないと思われていたような分野の人々との交流が、会社に大きな実りをもたらした。これを実感した渡辺社長は、受け身ではなく、積極的に外部の人々を受け入れようとしている。損得抜きで受け入れているその生徒さん達の目に、山梨の織物産地はどのように映るだろう。おそらく、産地のイメージアップという点でいえば、通りいっぺんのキャンペーンで望みうる効果をはるかに超えたものであるに違いない。


三宅一生展リーフレット
 やがて、山梨織物整理株式会社で加工した製品は国内はおろか海外の美術館を飾ることにもなった。製品の何点かが三宅一生の展示会で素材として取り上げられ、1998年、1999年にパリとニューヨークを回り、2000年4月には東京現代美術館にも同社の生地を使った作品が展示されたのだった。

「昨日もウチに来たお客さんがやっぱりその展示会を見ていて、『あの商品はおたくのですか?』って言うから『そうです!』って(笑)。やっぱりうれしいですね。ようやく生地も芸術性のある商品として認められるようになって、これからどんどん面白いものが出てくる時代になると思いますね」

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